12.28.06:40
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07.03.16:12
三重海軍航空隊 野辺山派遣隊
先日のツーリングの時訪れた野辺山宇宙電波観測所、長野県南牧村(八ヶ岳の裾)で見つけた碑のことで、なんでこんなところにと訝しんで調べてみることにした。
太平洋戦争(大東亜戦争)開戦とともに一挙に航空主兵に傾いてきた。
入門者が実機に触れるまでの基礎学習を行う予科練も大増強が要求され、予科練教育を一手に引き受けていた土浦海軍航空隊だけでは難しくなっていた。
そこで三重県に三重海軍航空隊を開き予科練教育を始め、終戦の年の5月にロケット型戦闘機秋水の搭乗員を養成するため野辺山派遣隊を設営した。
碑文(全文)
昭和十七年 三重海軍航空隊が三重県に創設され幾多の少年航空兵を錬成して戦場に送り輝かしい功績を残したが 昭和二十年五月 太平洋戦争の激化により わが国で初めて開発されたロケット型戦闘機秋水の搭乗員を養成するためこの地に野辺山派遣隊を設営し 一一九六名の海軍飛行予科練習生を派遣した 隊員たちは幕舎に起居しグライダーにより連日猛烈な操縦滑空訓練に励んでいたが 同年八月十五日の戦争終結により解隊された 戦後 元隊員たちは社会人としてわが国復興の中核となって活躍し 昭和六十三年八月 史実を後世に伝え平和を祈念するため 三重空野辺山若草会を結成し野辺山駅前に予科練之碑を建立した 戦後五十年を機に南牧村ご当局及び関係部落各位のご厚意を得て 同隊の栄誉とその跡地を記念してこの碑を建てる 平成七年八月 三重空野辺山若草会
これが秋水(しゅうすい)ロケット戦闘機です。
ドイツ軍のメッサーシュミットMe613の技術提供を受け国産ロケット戦闘機の開発が行われた。 これは当時アメリカ軍のB-29の高高度での飛行維持が困難であったために開発された。
しかし、資料の大半を潜水艦の撃沈により失い、設計そのものをコピーできなかったため開発が遅れた。
本来秋水は特攻機ではなく30ミリ機中を2門搭載していたが、秋水の速度が早すぎるため機銃の照準が困難であることが分かり3号爆弾で自爆する特攻作戦も採用されていた。
この野辺山での訓練はグライダーによる滑空訓練だったため飛行士としての基礎訓練だったと思う。 が時代が時代であったためほぼ特攻のための訓練だったのかもしれません・・・。
終戦がもう少し遅くなったら、この地からも若い命を散らさなければ行けなかったかもしれませんね。
平和である現在に感謝し、若い命を散らしてでも日本を救おうとした英霊に感謝したいと思います。
ブログ村の中からも記事をクリックしてくれるとランキングアップで嬉しいんですがねえ。^^;
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ジブリ映画に出てきそうは戦闘機ですね♪
あ!コレっぽいのがコナンに出てた?
コナンって言っても名探偵じゃ無い方ネ(^_-)-☆
Re:無題
そうかもしれませんね。
形からすると可愛いイメージですもんね。^^
形からすると可愛いイメージですもんね。^^
碑文に刻まれているとおりですね。
「史実を後世に伝え平和を祈念するため」
日本人として真実を後世に伝えていくことが、本当に大切なことなのだと、最近特に強く感じています。
Re:日本人として
>日本人として真実を後世に伝えていくことが、本当に大切なことなのだと、最近特に強く感じています。
いいことおっしゃいますねえ。^^
そう思ってくれる日本人が増えることを願っています。
驚きました。鹿児島県の知覧ででの戦闘機が
大体だと思っていましたが、えらく先進的な
技術もあったんですね。
是非、行ってみます。
Re:史実
割と有名なのは知覧と鹿屋ですね。
鹿屋には特攻を拒否して多大な戦火を上げた凄い人もいたんですよ。(美濃部正さん)
野辺山は基礎訓練場だったため石碑しか残っていません。何やらグライダーの滑空訓練に地形が適していたようです。
鹿屋には特攻を拒否して多大な戦火を上げた凄い人もいたんですよ。(美濃部正さん)
野辺山は基礎訓練場だったため石碑しか残っていません。何やらグライダーの滑空訓練に地形が適していたようです。
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