12.26.12:44
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09.15.08:47
ドラレコ
ドライブレコーダーがあればビデオとしても使えるからいいなあ、って思ってたんですけど、安物を買ったせいか写りが悪いのねえ・・・。
まあ仕方ないので壊れるまで使ってみましょう。^^;
ドラレコの本体は防水ではありませんのでリヤボックス内に設置しました。穴開けてボックスの影が出ないようにするには結構削らないといけませんでした。
ど真ん中に付けないと映像が曲がってしまうのでこんなところです。まぐろの顔が無くなってしまった・・・。ボロ隠しにスポンジ貼って内側にはちょうどぴったりだったヒューズの外包を切ってうち側から貼り付け。
一応防水と書いてあったレンズをフロントに取り付けました。だけど、スクリーンが汚いので画像もやばそう・・・。^^;
当然ですけど自分は映りません・・・。
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09.14.13:14
ツールボックス製作
低重心化企画の一部として、工具の重さがネックでした。したがいまして低重心化を行いました。
アルミでこしらえましたボックスです。場所に制限がありますのでこんな形になってしまいました。マフラーとチェーンを避けまして、ボックスの蓋も着脱式にしました。
レギュレーターの場所はこのボックスの上にしました。
ここです。風通しとボックスの熱放射で冷え冷えだと思います。^^;
右側です。路面とヒットすることがあるかもしれませんけど、工具箱ですので大丈夫でしょう。
いつも持ち歩いてます工具とスペアレバー、パンク修理キットが入りました。
リヤボックスがガラガラになりました。^^;
でも、こっち側は間違いなく擦りますね。擦れたらその角度で溶接し直そう。
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09.10.11:57
鬼怒川氾濫ちう
通勤途中の鬼怒川、河川の真横の家は1F部分が川に・・・。
こんな水量見たことがありません。
このあと通行止めになってしまいました。
鬼が怒る川・・・・50年に一度の大雨です。なんで怒ってるのか・・・?
何故か?車のダッシュボード・・・・・。不思議・・・。
おめぐみを
09.07.11:23
松屋製麺所すラーメン
土曜日にカッシーと近場ラーメンツーして来ました。もちろんバイクの調子を見るのがメインですが・・・?
バイクは燃ポンの吸い上げ口を改良しまして絶好調となりました。燃ポンのストレーナーはL型になっていまして、それを銅管で延長していたんですが銅管が底付きしてしまって吸い上げができない状態になっていた模様です。L型をストレートに変更しました。
松屋製麺所に到着したのは10時45分頃、チャーシュー麺下さいと言ったら、チャーシューは10時に終わったのことで残念・・・。
で、すらーめんのネギのせ¥500-を注文。10分ほどで出来上がり、これが期待以上に美味しかったんですよ。^^
麺はもう少し固めでもいいような気がしましたが、スープがおいしかった。喜多方と、永福大勝軒のスープを足してあっさりさせた感じとでもいいましょうか?
久しぶりに全つゆしてしまいました。^^;
具がないにも関わらず飽きることなく完食できました。
場所はこんなところです。筑波山の入口で昔は鉄道があったらしいです。今はバスターミナルになってます。その目の前です。
筑波山口バスステーションです。
下の鉄道跡にはサイクリングコースを作ってありました。サイクリングの人たちがお客さんで多かったですよ。
店内風景。古民家を改築して作ったようです。
製麺所がメインですけど、イートイン的なカウンターが7~8席といった感じでした。
製麺所側で麺3玉と醤油スープをお土産にしました。
家で麺固めで食べましたけどお店と同様に美味しかったです。
その後つつじヶ丘まで登ってお土産買って帰ってきました。
バイクが絶好調になって良かったですよ。^^
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09.04.15:00
アジアの国々が日本を嫌悪しているという作り話
2015年9月3日木曜日
マイケル,ヨン氏
アジアの国々が日本を嫌悪しているという作り話
長いことアジアにいる。これまでに21カ国に滞在した。つい最近もインドネシアに行ってきたばかりだ。人々は日本がインドネシアの独立に重要な役割を果たしたことをおぼえている。
日本兵16人がいわばインドネシア版のアーリントン墓地というべき場所に埋葬されているほど,この地で日本人は尊敬されている。ほとんどの住民がムスリムであることを考えると,日本兵のうちの何人かが十字架の下に埋葬されていることは興味深い。
今,共に調査をしている同僚とともにタイの首都バンコクにある国立博物館の図書室にいる。タイが第二次大戦中の枢軸国で日本の友好国であったことを知る人は少ない。
日本はタイがフランスを打ち負かす手助けをした。日本は実際には戦ってはいないが,しかし武器の供給などの面でタイ国を助けたのだ。
タイの領土の80%にもおよぶフランスと英国の支配地域を取り戻し,1940年,タイは自らの手でフランスから勝利を勝ち取った。戦力に勝るフランス艦船との海戦もあった。タイは日本の潜水艦や日本と米国の武器を使って戦った。日本と米国の戦闘機も配備されていた。日本の戦艦名取の上でフランスは降伏文書に署名した。
東京で平和条約が調印され,また多くの領土がタイ国に返還された。今日ほとんどのタイ人は他国に占領されたことなど無いと信じているが,それはあくまでも部分的に正しいと言うだけのことだ。一時期タイの大部分の領土はフランスに奪われ,それを返還するために日本が平和条約を交渉した,しかしながら自分の領土を自分自身で奪還したのはタイ自身だった。
それから第二次大戦となる。日本はタイ国に侵攻したが,そのときの戦闘は日本がやってくることを許可するための儀式のようなものであって短期間におわった。日本とタイ国は同盟国となった。もちろんSeri Tai(自由タイ運動)などの些細な事件はあったが。
下記のリンクから:
タイ国の前の首相,ククリット・プラーモート(Kukrit Pramoj)氏,当時,彼は新聞「Slam Rath」の編集長であり1973年には首相となった,は,以下のように記している。
すべてのアジアの国々が独立を得たことは日本のおかげです。母なる日本よ,非常な苦しみをともなう難産でしたが,あなたの子供達はぐんぐんと成長して強く健康になりました。
今日、アメリカやイギリスなどの国と同等の立場を東南アジアの国々の人々にもたらしてくれたのはだれでしょうか? それは日本です,日本が我々東南アジアの国々の母です。慈悲深い行いを示し自己犠牲の偉業を成し遂げたのです。
12月8日,母なる日本が我々に大切なことを教えてくれた日です。我々のために彼女自身の繁栄を危険にさらしてまで重大な決定を下し,我々のために彼女の命をかけてくれた日です。
さらに8月15日,この日,我々の最愛のそして尊敬すべき母がやせ細り病に倒れた日です。
我々はこれらの日を心に刻みます。
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